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第43話
佐賀・江戸の名薬B唐人膏(とうじんこう)
◆唐人膏の伝来◆
 松屋判助が文政(1818-1830)のはじめ、膏薬の製法の
秘方を長崎に在留していたオランダ人に受け、これを
「唐人膏」と名付け森田判助本店(現森田製薬株式会社)
が製造販売した。
◆唐人膏の伝来◆
 松屋判助が文政(1818-1830)のはじめ、膏薬の製法の
秘方を長崎に在留していたオランダ人に受け、これを
「唐人膏」と名付け森田判助本店(現森田製薬株式会社)
が製造販売した。
 
◆オランダ外科術と膏薬◆
オランダ膏薬について次のように述べられている。
鎖国下の唯一貿易ができた国はオランダで、長崎出島に
蘭館があった。この蘭館付医師が教えた医学は主に
外科術で、それに使う多くの膏薬であった。
なかでも、慶安2年(1649)来日したカスパルが伝えた
17種の膏薬が日本化されて後の世に影響を与えた。
また、オランダ医師に学んだ通訳官の楢林・吉雄の両家
から医者となった。その一人楢林栄久が考案し、
オランダ人に褒められた膏薬がある。
その膏薬は、
佐賀の「唐人膏」と同じ成分からなっている。
◆佐賀藩と出島◆
佐賀藩は、江戸時代、幕府の命で、黒田藩と交代で
長崎港の警備に当たっていた。
その影響で、
佐賀藩には、全国に先駆けた多くの西洋の技術が
導入されている。唐人膏の伝来もこうした
背景の中にあったものと思われる。
 ◆膏薬得意の隆盛◆
 当初は製薬の方法が十分でなく、苦心研究され、
数十年にしてようやく製法を完成して、
大いに世上の信用を博した。
これにより他藩への営業進出の基礎を確立することができたという。
 判助の2代目になり、「唐人膏」に何時しか「判助膏薬」と呼ばれ、
声価大いにあがり、遠近競って、購入した。大正までに販路は
九州、四国、中国一円及び東北地方に及んだ。
 大正時代には、延べ膏薬(万金膏)と貝殻入りの唐人膏類の膏薬を
組み合わせた薬を専門の販売する配置売薬が起こり、
隆盛をなし、いわゆる「膏薬得意」を確保した。
 ◆ 薬 効 ◆
用法は、温めて和紙に延ばして痛むところに貼った。
ヒビ、アカギレには、焼け火箸で硬膏を溶かして、傷口にすり込んだ。
 効能は、アカギレ、筋骨の痛み、肩腕のコリ、背の痛み、
腰痛み、打身、切り傷、ヒビ
 ◆ 成 分 ◆
成分は、胡麻油、牛脂、松脂、蜜陀僧、鉛丹を加熱、混和して、
塊(硬膏)として、貝殻または竹の皮に包んだ。
戦後は、栄養の改善、機械化による農業等における重労働の
軽減などで、ヒビ、アカギレ、腰の痛みが少なくなったことや優れた
鎮痛剤が出現したことにより「唐人膏」は
昭和50時代で生産が終わった。
             参考文献
               @森田判助本店沿革、大正10年(現、森田製薬株式会社)
               A宗田 一、日本の名薬、1981          

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