佐賀県内でもオタネニンジン(御種人参)が栽培された。栽培園は
人参木場などと呼ばれていたが、あまり知られていないので紹介します。
江戸時代、対馬藩は釜山に貿易事務所「倭舘」を設け、朝鮮との貿易
を盛んに行っていたが、主なものはオタネニンジンであった。
8代将軍徳川吉宗は対価の銀が海外流出するのを抑える手段として、享保
6年(1721年)は朝鮮から苗を取り寄せて試験し、その後、日光にニンジン
栽培試作場を設け、国内栽培の研究を行った。苦心の末、享保年間
(1728年)
栽培に成功し、幕府は種苗を諸大名へ分与し、藩の財源
として奨励した。
このことから「御種人参」の名は生じているもので
ある。
また、寛政2年(1790)には、栽培希望者に種苗を下賜すべき旨の布告が出た。
島根県大根島、福島県会津高田町、長野県丸子町の三大産地はこの恩恵に
より、今日まで続いているものである。
さて、江戸時代の朝鮮人参ブームと幕府の栽培奨励のもとで、佐賀藩にも
武雄、多久の2カ所に御種人参栽培園があったので、その状況を見ることにする。
武雄の人参栽培園:佐賀藩第20代武雄邑主(領主)鍋島茂義(浄天
公)は
当時オタネニンジンは対馬藩の専売品であったため、対馬藩を
介して朝鮮から
種苗を取り寄せて「船の原大陣」に植え、番人、手入
れ人に住まいまで建てる
力の入れようであった。
しかし、3年後に収穫、調整して用いたが朝鮮産に及ばなかったため
廃止され
たと伝えられている。
多久の人参栽培園:多久市多久町西の原から北方町へ通じる大峠の東で
オタネニンジン栽培が旧藩経営で行われ、ここは「人参木場」
と呼ばれていたが、
成功しなかったようで、その後は、畑となってお
りその面影すらない。記録も少
なく、詳細不明。
|