前へ】【次へ
くすり百話  (第8回) H 12.3.3
第14話
佐賀のオタネニンジン栽培 
御種人参/朝鮮人参/薬用人参
佐賀にもあった御種人参栽培園
人参木場の話


     佐賀県内でもオタネニンジン(御種人参)が栽培された。栽培園は
   人参木場などと呼ばれていたが、あまり知られていないので紹介します。

   江戸時代、対馬藩は釜山に貿易事務所「倭舘」を設け、朝鮮との貿易
   を盛んに行っていたが、主なものはオタネニンジンであった。

   8代将軍徳川吉宗は対価の銀が海外流出するのを抑える手段として、享保
   6年(1721年)は朝鮮から苗を取り寄せて試験し、その後、日光にニンジン
   栽培試作場を設け、国内栽培の研究を行った。苦心の末、享保年間 (1728年)

   
栽培に成功し、幕府は種苗を諸大名へ分与し、藩の財源 として奨励した。
   このことから「御種人参」の名は生じているもので ある。
    また、寛政2年(1790)には、栽培希望者に種苗を下賜すべき旨の布告が出た

    島根県大根島、福島県会津高田町、長野県丸子町の三大産地はこの恩恵に
   より、今日まで続いているものである。


    さて、江戸時代の朝鮮人参ブームと幕府の栽培奨励のもとで、佐賀藩にも
   武雄、多久の2カ所に御種人参栽培園があったので、その状況を見ることにする

    武雄の人参栽培園:佐賀藩第20代武雄邑主(領主)鍋島茂義(浄天 公)は
   当時オタネニンジンは対馬藩の専売品であったため、対馬藩を 介して朝鮮から
   種苗を取り寄せて「船の原大陣」に植え、番人、手入 れ人に住まいまで建てる
   力の入れようであった。

    しかし、3年後に収穫、調整して用いたが朝鮮産に及ばなかったため 廃止され
   たと伝えられている。

    多久の人参栽培園:多久市多久町西の原から北方町へ通じる大峠の東で
   オタネニンジン栽培が旧藩経営で行われ、ここは「人参木場」 と呼ばれていたが、
   成功しなかったようで、その後は、畑となってお りその面影すらない。記録も少
   なく、詳細不明。


前へ】【次へ