くすり百話 (第27回) 第41話 佐賀・江戸の名薬@奇応丸 |
第41話 佐賀・江戸の名薬@奇応丸 |
奇応丸は全国的に疳など小児の 常備薬として重宝がられた薬です。 |
◆佐賀の奇応丸伝来◆ ■奇応丸は朝鮮国より対馬藩へ伝わったと思われる千金丹、香蘇散等と ともに、対馬藩田代領であった佐賀県東部の鳥栖・基山地区へも伝わり、 医者や庄屋層に、そして、一般領民の間に製薬技術が伝承され、庶民救 済の施薬となったのであろうと思われている。 ■文禄の役(1592)において、対馬藩の宗義智が病気になった折り、慶州の 医者から朝鮮奇応丸という薬をもらい全快したという、記録がある。これ以後 奇応丸が対馬藩領の鳥栖・基山へ伝わったといわれている。 ■佐賀藩の「丸散由来」によると、慶長年間(1596〜 )、 高麗人によって 製薬が始まり、製造された薬が商いされたことが記載されている。 ■三重県津市の古河長良直吉販売の奇応丸の由来は、三重県薬業史 には、文禄年間、肥前の住人である細野右進という者が朝鮮の役の折り、 王妃が歴代の神方といって授けて恩に報いた。これが奇応丸という。 |
◆配置家庭薬代表薬◆ ■奇応丸は明和期(1764〜1772)以降、九州から中国地方にかけて 配置家庭薬として販売され、その後、奇応丸は田代売薬の代表薬として 成長し、対馬藩が売薬制度を設定した天明8年(1788)以降、朝鮮伝来の 技術を生かしたことを示すため「朝鮮名法奇応丸」と称して、他の奇応丸 との差別化を図った。 ※ 江戸時代、鳥栖・田代・基山地方は対馬藩田代領であったこと からこの地方に発達した薬業を「田代売薬」と呼ばれる。 |
◆ 薬 効 ◆ @気付、食傷、吐逆、痰咳、積 、痢病、小児驚風、五疳、諸虫 (M8売薬検査御願) A一切気付、積ヒ、腹の痛み、小児の疳、驚風、虫 (册補家伝預薬集、1778) ◆ 成 分 ◆ @人参、熊胆、沈香、麝香を細かくして丸剤として、金箔で衣とする 。 (册補家伝預薬集、1778) A人参、熊胆、沈香、麝香,金箔(鳥栖橋本健氏所蔵薬剤調合帳、1840) |
◆ 全国の奇応丸 ◆ @東大寺の奇応丸:室町時代の永世(1504〜21)、奈良東大寺の太鼓の 皮が破れ、張り替えようとして、鼓腔に処方が書かれていた。これを作り試 してみると奇応があったので、奇応丸と名付けた。 A施薬院の奇応丸:施薬院の全宗(1526〜99)が伝えたとする説。比叡山 の僧であった全宗が名医曲直瀬道三に医学を学んだ。大飢饉と疫病が流行 した折り、廃滅したままの施薬院を復活して、勤め庶民等へ施薬した。この 全宗が奇応丸の処方を伝えたという。 B明治時代には、樋屋奇応丸をはじめ100社以上で作られていたといわれ るが、起源の明らかなものはない。 かって、日本では、栄養状態が悪く、虚弱児が多く、夜泣き、発熱、下痢を しやすい小児が多かったが、今日では、食生活が改善され、このような 小児疳は少なくなり、奇応丸の需要も少なくなったこと、麝香、熊胆等の 高貴な配合原料が入手困難なってこと、また、細粒丸の製造が容易でな いことの理由により、佐賀県内では、昭和50年代に生産されなくなった。 |
参考文献 宗田 一、日本の名薬、1981 鈴木 昶、江戸の医療風俗事典、2000 小林 肇、対馬領田代売薬史、1960 小林 肇、対馬領田代売薬発達史、1999 佐賀県薬業指導所、佐賀県薬業史概要、1993 |